2020年06月18日

二人の夢がピタッと合った時

(ご主人)沖縄の出身ですが、父が転勤族で育ったのは東京です。環境分析の会社に勤務していましたが、地域おこし協力隊の前身の組織の「田舎ぐらしをしてみないか?」に応募して、会社を辞めてこの地に来ました。農業が好きというよりも田舎暮らしをして見たかったです。

農業の手伝いや林業の手伝い、観光イベントで1年間の契約期間はあっという間に終わりました。その後、「気に入ったらここに定住して農業を教えてやる」という師匠が現れて、定住を決意しました。農地を借りて農業見習いをしながら、生活費稼ぎにコンビニやスキー場のアルバイトをしました。

(奥様)私は東京の生まれです。小さい頃から料理が大好きで栄養士の学校に行きました。合わせて調理師の免許も取りました。幼い頃は親の実家の田舎に帰省する友達が羨ましくて仕方なかったです。栄養士で働いている時も同じ種類の作物なのに産地が変わると味がこんなに変わるのはどうしてだろう?と興味津々でした。

当時3泊4日で「田舎で働きたい」募集があり、募集して滋賀県に行きました。その4日間が楽しくて楽しくて。東京に戻ってもまた行きたいとずっと思っていました。すると滋賀県の引率をした人から田植え手植え体験に参加して見ないか?とお誘いを受けて初めて福島県のこの地を訪れました。そしてその年に夏はじゃがいも植え体験、秋は稲刈り体験で3回も来ることになりました。

その時の先生が今の主人です。今の主人がキラキラ輝いて憧れるようになり、お付き合いを始めました。結婚式は東京でしました。その日は2011年3月12日でした。東日本大地震に翌日でした。

一緒に福島県に行く予定が足止めを食らうことになり、週末婚で月に何回か通いました。そして1年後に私も転居しました。当時原発事故の影響で農産物出荷制限がかかりました。

検査した安全な農産物も出荷できません。作物は育ちます。廃棄するしかありません。その状況の中でブルーベリーを出荷できないのでジャムにして欲しいという農家からの相談がありました。

それで加工を思い立ちました。それまではペンション、農家民宿が夢でしたが、加工に変わりました。加工技術は農業短期大学校のカリキュラムを見て通いました。加工施設は栄養士時代の蓄えと「復興六起ふるさと起業事業認定」を受けてその補助金で建てました。加工場はかっての牛舎跡です。

昨年、長女が生まれました。今年2人目も生まれます。育児が多忙ですが、主人と一緒に充実した日々を送っています。
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2020年06月17日

公務員を定年退職後、林業を


40年勤務した農政局を定年を半年残して退職しました。定年延長で勤務することは考えませんでした。人と同じことをするのが苦痛で、せめて退職後は自分なりの生き方をしたいと思っていました。実家は森林業を営んでおり、原木しいたけ栽培と森林組合の伐採等の作業受託をしていました。

両親に後継の話をしたらいい顔はしませんでした。原木しいたけは森林組合に出荷していましたが、価格等であまり林業にいい感じは思っていませんでした。

一人息子なので妻に相談して実家の近くの都市部に住まいを借りて、そこから1時間以上かかる実家に通い始めました。妻は住まいの近くに畑を借りてトマト栽培を始めました。その作業もあり、実家5.5、住まい4.5の比率の生活をしています。

9年前の東北大震災の原発事故で原木しいたけは出荷制限を受けてホダ木は廃棄していました。その後は父が規模縮小して行っていましたが、自分が後継者になるのと共に椎茸種菌メーカーから栽培技術指導を受け、出荷制限も解け他ので原木しいたけの復活から始めました。

父母は89歳と84歳で元気ですが農林作業は無理です。自分でやると決めて始めました。原木しいたけのホダ木はナラの木です。

自家の森林から伐採業者にチェーンソーで伐採してもらって2400本のホダ木を作りました。それに菌を植えつけます。収穫まで3年かかります。

販売先は近隣の都市部の農産物直売所です。系統出荷だと乾燥しいたけでkg2700円の出荷価格、これでは経営は不可能です。それで顧客、ユーザーへの直接販売することでkg8500円の手取りを確保しています。栽培の椎茸は縄文椎茸というネーミングで商標登録しました。

山ぶどうは平成30年に父から引き継ぎました。現在、70本を栽培しています。近くの加工場に委託して山ぶどうジュースにしてもらっています。山ぶどうは剪定作業に興味を持つ人が多く、その人たちと「山ぶどう栽培プロジェクト」を開始して剪定作業の連携を開始しました。

通常の生活は毎日朝5時〜午後7時まで働き続けています。休みはありません。定年後10kg痩せました。椎茸のホダ木作り、草刈り、トマトの定植、山ぶどうの剪定、鹿除けネット張り、DIYで作業台作り、ハウスの修繕等。大忙しです。
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2020年06月16日

40歳過ぎてからの食と農での起業

実家は五所川原で3代続いている理容店です。でも私は弟が理容店を継いでいるので私は衣料品の販売の仕事をずっとしていました。

主人が体の調子を崩し、余命長くないのを察してか、自分の手に技術を持つことを勧めてくれました。一生続けることができる仕事ということで理容師を選び、38歳から2年間理容師専門学校に行きました。それからインターンを経ました。理容師になったのは40歳を過ぎてからです。

その頃主人が亡くなりました、理容師になったもののお客様を得ることができない期間が続きました。当時、理容学校も卒業してすでに2年が経っていました。

理容師は男がほとんどです。自分が女であることを生かして女性に来てもらおうと思いました。理容店と美容店の違いはカミソリを使えるかどうかだけです。理容店は髭剃りをするのでカミソリが使えます。

それを逆手にとって女性に顔そりを考え、それから勤めの利用しから自分の理容店をオープンしました。馴染みのお客様は男性主体から女性に変わり始めました。それから頭皮マッサージや頭皮の中の脂取りのメニューも入れました。

その頃、高齢者の理容に対する期待が高まりました。悩みは薄毛、しみ、女性は肌の荒れです。その解決のためにはリンゴが必須とわかり、青森県産リンゴを使った商品を作り始めました。

そのうちにリンゴの剪定枝と鹿角霊芝の粉末をブレンドしたものが老化防止に効果があるということで石鹸を作りました。「リンゴ美人石鹸」で販売したら大変よく売れました。

すると行政指導が入り、化粧品登録して製造販売していないので製造できなくなりました。それで初めて食品製造に参入しました。最初にレトルトカレーを製造委託して販売してよく売れました。

そのうちにりんごみそを計画しました。おかずみそでこの地域に昔からありましたが余計な具材を入れないでりんごとみそだけで商品化したらこれが大ヒットしてちょうど東北新幹線の新青森延伸の頃で売れました。

この頃から理容師との2足のワラジを辞めてりんご商品開発と販売に専念するようなり、現在に至っております。
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2020年06月15日

子育てしながら農業をする

京都精華大学時代に地元学で後の滋賀県知事になる嘉田由紀子さんの授業でNPO活動に興味を持ちました。また、農業への関心を高めたのはやはり授業で農を目指している環境社会学で槌田劭先生の授業を受けて有機栽培、自然農の農業をやりたいと思いました。

また、幼い頃から母が健康に関心が高く、アトピー等で病院に頼らない食事を家族に食べさせてくれたのも影響しています。

大学時代の自然保護活動のサークルに入っていました。シキタ純さん「be good cafe」の「自然農と野菜を求めて」のイベントにも参加しました。

就職は自然や環境が好きなのでアウトドアの会社でした。キャンプ用品や釣り用品をインターネット販売している会社でした。
 
5年間働いて、退社しました。それから一般財団法人で1年間働きました。コミュニティが行政の課題を解決するという活動をしていました。ここで川のごみ調査や子育て調査等好きなことをしている人とのふれあいは楽しかったです。

結婚してそこを辞めました。そして、出産、子育ての生活になりました。そこで子供をよい環境で育てたいと思い、家庭菜園等キーワードを検索すると豊能町が出てくるのでその近くの箕面市箕面森町に居を求めました。
 
早速、豊能町高山で「ふれあいファーム」という定年後のサラリーマン達約20名で行なっている家庭菜園があるのを知って、子供を連れて参加しました。
 
やがて高山地区に棚田管理一・四会があるのを知り、もっと農業・農村を知りたい、こだわりの栽培の高山棚田をみたかったとで訪ねました。子供連れで通いました。自分が欲しいレベルの作物がつくれるようになってきたので自分でやりたいと思いました。

ちょうどその頃、豊能町役場がとよの新規就農塾を開催していたのでその塾の第2期生で入りました。(※当社団法人エクセレントローカルが豊能町から受託している新規就農塾)ここで1年学んで、丸2年経って、棚田を借りました。
 
販売はかって勤務したアウトドア会社主催の月2回の農産物直売会に出店して農産物と自分で製造した加工品を販売しています。

2週間に一度は自宅の前にテントを張ってテーブルを置いて販売します。徐々にお客様が期待してくれるようになりました。インスタグラムでとどろみ(止々呂美は地名)舎を出店して販売しています。

自分は自由人であると思っています。自分が収穫したものを自分や家族が食べるこの行為は一体であり、それを自由にできるような環境になりたいです。
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2020年06月14日

この話はフィクションかな?

最近、仕事の関係で熊本県荒尾市に行く機会ができるようになりました。福岡県と熊本県の県境に熊本県側は荒尾市、福岡県側は大牟田市です。でも県境はないに等しい1つの都市です。一般的には大牟田市がよく呼称されます。

ここは三池三井炭鉱があったところです。私は福岡県出身なので高校、浪人時代の年齢まで糸島の実家に住んでいました。物ごころついた頃の西日本新聞には既にピークは越していたとはいえ、三井三池労働争議の記事が載っていました。

この頃から社会問題化する公害事件で世界中を震撼させた水俣事件、もう少し後には沖縄返還問題と長崎県佐世保への原爆搭載空母エンタープライズの寄港デモの事件を憶えています。

この三井三池労働争議を書いた「血の底のヤマ(西村健著)」を読み始めたら実に面白い。こっちも新刊の執筆に取り掛かったばかりなので人様著書の本を読んでいる余裕はないのですが面白いです。

この中に警察、刑事が犯人を特定する場合の被疑者や関係者との心と言葉のヨミ、やりとりが出て来ますが、実に興味深いです。

自分の事件を思い出しました。私は27年前に会社をクビになりました。懲戒解雇というおぞましい退職でした。私を話をでっち上げてクビに追い込んだのは中途入社の元警察官で当時は総務部勤務40歳代でした。私を調べる時に「警視庁の元課長だった」と言いました。今思うと私に完全な嘘のバイアスをかけていました。

後でこの男が逮捕された時に週刊誌で知った経歴は「都内の交番の巡査」だったと書いてありました。詐称していたわけです。その後に私事で首の骨を折って身体障害者になり、その採用枠で会社に中途採用されたと知りました。が、当時はそんなことは聞かされていません。

この事件が持ち上がった時の担当役員も担当部長もみんな私のかっての上司です。何故彼らが私を助けてくれなかったか?不思議でした、それは後で懇意にしている新聞記者からおかしいでしょと言われましたが。その時は俺も仕事でやり過ぎて敵を作ったんだろうと反省して、妙に自分に言い聞かせました。

「何故助けてくれなかったか?」この本を読んでわかりました。私の事件を一番恐れていたのはその担当役員と関連役員ということが。このお巡り上がりの社員が重役達にお前達のスキャンダルを掴んでいるぞと匂わせていたことです。

私のことはでっち上げですが、役員達はカネとオンナではヤバいのがたくさんいました。この男は私をでっち上げ、この重役達を脅した。それで私をクビにすることで自分たちを突かないで欲しいと暗黙の取引をした。

その後、この男が株主総会対策で総会屋に巨額の金を渡し、かつ自分も2桁億円の金を横領していたことが発覚して逮捕されました。その時に一番胸を撫で下ろしたのは悪行をやっていた重役達のはずです。

この連中がこの株主総会利益供与事件の後に私に近寄って来る、来る。何故か?後ろめたさのためか?と思っていましたがそれも違います。この総会屋が消えた後に事実を知るのは私だけになったので私への機嫌取りにです。

その頃、かって最も尊敬していた上司、この事件の担当役員から「お前があんなことするはずがない。俺はあの時にお前を庇ったんだぞ」と言われた時はこの人こそ俺を一番認めてくれている上司だったと信じ込みました。しかし、この本を読んでわかりました。私を売ったのはこの男だと。そう思うと釈然としなかった事が全て腑に落ちました。

27年前の話ですが、この悪どもはまだほとんど生きています。
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2020年06月13日

書いてあることは嘘とは思いたくないが

今朝は東京は雨です。もう梅雨に入ったのかも知れません。早朝、来週からのJR東日本のチケットを買いに行きました。今週は西日本、来週は東日本です。みどりの窓口カウンターに2名が座っていました。休日早朝なのと自粛なので客は私一人です。

手前のスタッフはいらっしゃいも言わず、かつ下を向いたまま私を無視です。向こうのスタッフは立ち上がって大きな声で「いらっしゃいませ」。距離からすると手前の方が近いですが、私は向こうの人のところへ行きました。

手前のスタッフにチケットを発券させるとミスをするのがわかっているからです。私の長年の経験から表情と態度を見ればわかります。要はやる気がないのです。向こう側の人に頼んで正解でした。

これでもこの手前のスタッフがミスしてもJR東日本では特に注意もしなければ、彼が叱られることもありません。向こうのスタッフはこれだけ立派に気持ちよくやってくれてもそれで給料が上がることはありません。

手前のスタッフのミスを怒ると怒った私が怒った分だけ損するだけです。気持ちが不快になった分だけ損します。おかしいと思いません?

ネットを開くといろんな情報が入って来ます。自己PR、自社パフォーマンスのコンテンツもたくさん掲載されています。最近、この大半は嘘なのでは?と思っています。

食と農に関すると私はこの業界は長いのでたいてい真贋がわかりますが、名前を聞いたこともない企業が立派なことをシャーシャーと書いています。また、新規就農セミナーも聞いたこともない講師陣がイケメンぶってホストかモデルかって格好で写真に写っています。

ネットは余程のことがない限り、詐欺で訴えられることはありません。これまた致し方ないのかも知れません。じゃあネットビジネスで成功した人がみんなこんな人間か?そんなことはないと思います。逆でしょう。実際、会うと誠実で魅力的な人なのでしょう。だからビジネスがうまく行った。

ネットでサークルを募集するサイトが増えています。とても入る気がしません。しかし、人生は友達探しの旅です。テレではなく、実際にそこに赴いて、息遣いの聞こえる距離で親しくなりたいです。


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2020年06月12日

線香花火をつくるために米作りを

この地域に6軒の花火製造元がありましたが、今はうち1軒だけになりました(全国では愛知県にもう1軒あります)。花火製造には打ち上げ花火と玩具花火があり、この地域は玩具花火製造業ばかりでした。

子供が花火を知らないのと花火をする場所がないのとで玩具花火は衰退の一途でした。特に国内の製造業者は激減して、たいていが中国で製造したものを販売問屋が仕入れて販売しています。

近くの八女市の親戚が当時唯一の線香花火業製造所でしたが、その叔父が廃業する時に、「線香花火の配合を覚えておけ」と教えてくれました(当時、当社は玩具花火製造所)。

線香花火の配合の奥は深く、線香花火に火をつけると4段階の花になります、最初は牡丹(ぼたん)、次は松葉(まつば)、そして柳(やなぎ)、最後は散り菊です。この配合が難しいです。

叔父から技術取得と自分の技術を作るのに丸1年かかかりました。毎晩、作業所で火薬で真っ黒になりながら夜明けまで没頭しました。明け方、帰ると妻から毎晩何しているの?と不思議がられました。現在、我が国で線香花火を製造しているのは当社だけです。

東の線香花火は持つところがこよりで「長手牡丹」、西の線香花火は持つところが藁(わら)です。現在は両方を製造していますが、この地域は「スボ手牡丹」わらが主流です。

このわらは昔、おかいこさんを飼っている頃は上部の柔らかいところはかいこ用ほうきに使われ、下部の芯のあるところが線香花火の取っ手に使われていました。

北朝鮮から輸入していましたが、5年前から輸入できなくなり、スタッフ全員パニックってしまいました。それで自ら、農業に参入しました。4反歩の田んぼを借りて新規就農しました。米作りの先生は近くの農家の人たちです。

ワークショップで「花火のつくり方」の依頼が多いです。花火のストーリーを伝えるとみんな買います。販売先はセレクトショップのようなライフスタイルショップが多いです。

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2020年06月11日

カフェをやりたくて農業へ

私は福岡市出身で東京の大学を出て不動産会社に就職しました。その新人研修で石川県小松市の航空自衛隊での研修を受けた時の教官が今の主人です。交際が始まって1年後に結婚して会社を辞めて、東京から小松市に引っ越ししました。教員免許があったので学校の先生の職を得ました。

その時から将来は漠然と農産物を活かしたカフェをやりたいと思っており、休みの日は石川県の農家やカフェを回りました。

結婚して初めて熊本県の主人の実家を訪ねたら、主人の祖父が荒尾競馬場の競走馬の育成をしていたことを知りました。現地を訪ねたら、20年前に廃業して朽ちかけた厩舎と荒れ果てたパドックがありました。

その時にここで何かできないかな?と思いました。そこで浮かんだのが将来の夢のカフェ。そのカフェの食材をここで作ろうと思いました。農家をやると主人の両親に打ち明けたら、両親も親戚一同大反対でした。大反対を押し切って、これ2人とも仕事を辞めて主人の実家に戻って来ました。

経済的な蓄えも小松時代での貯金では足らずに、熊本に戻っても1年間教師の職を得ました。主人は農業大学校の週2日の一年コースで農業の勉強を始めました。

戻ってすぐから荒れ地と化した60アールの農地に手を入れ始めました。そして、念願のイタリア野菜を植え始めました。退職したのが2012年の3月で、農業を始めたのは4月からです。

野菜は思い通りにはできませんでした。現金収入が欲しいのでできた野菜を使ってホットサンドを商品にして移動販売車で各地域で週末行われるイベントで販売しました。

さらに売り上げアップのために加工食品の開発を始めました。加工技術は農業大学校の加工担当の先生にその都度相談しました。販売はSNSを活用しました。今はインスタグラムで発信して得たお客様が主です。ベースのネットショップを開店してから注文が来るようになりました。

そうしているうちに主人の農業技術もアップして次第に野菜も美味しい野菜が栽培出るようになりました。農法は当初から無農薬、無化学肥料です。今でも毎日が農法の試行錯誤です。

次第にイベントで知り合ったシェフ達から野菜の注文が入るようになりました。現在は200種類の野菜を栽培しています。
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2020年06月10日

どうして私は農業を始めたか?

父が生保会社に勤務していたので、転勤で全国を回りました。大学・大学院(東京工業大学)では化学分野で高分子工学を学びました。

中高大を猛烈に勉強したわけではなく、敷かれていた環境の中で生きてきました。平成6年大学院卒業後はこれまたごく普通に大手化学会社に入社しました。

研究所勤務で4年間基礎研究、1年半は応用研究をしました。それから工場の現場勤務になり、現場を知りました。

仕事は面白く、泥臭く、生々しいということがわかりました。同時に今の会社の研究部門の道を歩くとこのまま人生が終わってしまうのか?と考えるようになりました。

それで退職をして、別の仕事を探そうと思いました。片っ端から電話帳でどんな職業があるのか調べました。

自然のあるところで生活したい、家族で仕事をしたい、つくることをしたい、ライフワークになる仕事をしたいの4条件を満たしてくれそうなのが農業でした。

当時住んでいた愛媛県の農業会議に連絡したら県内の過疎地域の町村が新規就農を応援していることを知りました。住居や栽培指導、資金面等で仕組みが出来上がっているのを知りました。

当時、結婚したかった女性に打ち明けたら、その時に彼女のお家が農家と初めて知りました。そして彼女から大反対され、別れました。

決意してから土日に農業大学校の1年コースに通いました。そして退社して、就農イベント知り合った熊本県のいちご農家に研修生で入りました。2年半研修して独立しようと思いましたが、栽培作物を収益性や労働生産性を考えてトマトに切り替えたのでさらに1年新たな研修に行きました。

合計3年半の研修を経て、農地を借りて独立しました。自分の農地を取得できたのは5年目の時です。

JAトマト部会に所属してそれで表彰を受けられるほど頑張りました。現在は流通と直接契約しての販売が増えてきました。

現在は2名の研修生を受け入れて、それぞれ1棟ずつハウスを提供して実践指導(指導期間は2年)をしています。新規就農で受け入れてくれた研修先へのせめてもの恩返しと思っています

50歳を過ぎたので、この若い研修生たちが育ったら新しいカタチの連携農業をできたらよいなと思っています。
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2020年06月09日

農業をするために夫婦で日本に移住

小学生までは日本の学校でしたが、父が外務省勤務でそれから中高大学大学院は外国の学校です。大学と大学院はアメリカです。そこで数学と環境学を学びました。妻はアメリカ人で環境学を学び、当時、結婚したら田舎で2人で農業をすることを決めていました。

アメリカではその場所が見つからずに日本で探したら岡山で里山の古民家が見つかり、移住を決心しました。

当時アメリカで日本語と英語の翻訳の仕事をしていたので日本に移住してもリモートで仕事ができました。結婚したアメリカ人の妻は来日と共に日本語教師になりました。

古民家に住んでパン屋を始めました。そして移動販売車で販売しました。ピザのトッピングはその古民家に付いている2畝の畑で作った野菜を使いました。2畝の田んぼでは自家消費の米を栽培しました。

そのうちに妻が小麦粉アレルギーを発症しました。パン生地をこねる手がかぶれはじめました。また、パンを食べる度に体調不良になりました。

それで次の特産品品目を製造販売を考えなくてはいけなくなり、鳥巣さんの会社(キースタッフ社)の加工特産品セミナーに行ったのはその頃でした。そこでドレッシングやピクルスの作り方を学びました。

パンを焼くための原料を求めて農業をするようになったのではなく、パン屋を始めたのでその材料に自家栽培の農産物を使っただけです。

もちろん大半は仕入れた小麦を使っていました。小麦粉の代替としてグルテンフリーの米粉の存在は知っていましたが、当時の米粉はとても使えたものではありませんでした。

ある日、製粉メーカーの微細粉米粉を知ったのでそれで試作したら小麦粉使用よりも美味しいパンが焼けました。これだと思いました。

これがグルテンフリーのパン製造に入ったきっかけです。今は古民家はそのままにしてパン屋は市内でカフェに業態変更して営業しています。さらにブラウニーを開発して、その製造加工場も作りました。ブラウニーは全国に販売されるようになりました。そっちの担当は妻です。

現在、アメリカもコロナ禍で大変で、みんな個人レベルの農業をしたいと言い出し、日本のホームセンターで販売しているような家庭菜園向けの農業資材がよく売れているようです。
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