2019年11月25日

一生懸命やっていると誰かが認めてくれる

母が亡くなった時、中学に入ったばかりでした。なかなか母の死はわかっているけど受け入れられなくて、母はもう自分の前に姿を現すことはないと受け入れるのに1年間くらいかかりました。その頃から人に頼ることをしなくなって来ました。

新しい母が来て、弟が生まれると自分がこの家での居場所がないと思うようになり、早く大きくなって東京の大学に行こうと思っていました。それなのに思いの入り過ぎか、大学にはなかなか受からずに2浪の末に滑り止めにも視野になかったところに行きました。おれは実力はもっとあるんだと心のどこかで思っていました。だから大学時代は素敵な思い出が余りありません。

就職はコネで当時の一流会社に入りましたが、配属されたのはコネの宿命か、見せしめか?大卒新人社員が配属されることのない東北の支店でもない、営業所でもない、連絡所でした。

新入社員ですが、担当は1人しかいないので大変でした。とてもできないと思っていましたが、余計なことは考えずにあと1ヶ月は必死でやろうと思ったらその頃から得意先の人が受け入れてくれるようになりました。

その後は支店を経て、本社勤務になりました。これまた仕事は大変で新婚でしたが、30年後の離婚のタネはこの時期に生まれたと言っても過言でないほど新妻には寂しく、辛い思いをさせました。でも、そのうち本社でも認められるようになり、出世も早くしました。

調子に乗っていたら、会社の引き起こしたスキャンダル(3年後にそれが社会に晒されることになりますが)の犠牲になり、クビがチョンです。身の潔白を訴えても元へは戻らないのがわかり、今の職業に入りました。

その頃、フィーの安さで妻がこの職業(中小企業診断士)では生活できないねと言ったのを覚えています。他にできることがないので貧乏、貧乏しながら子育てをしていたら、何となく少しですが、売り上げも収入も上がってきました。

でも本当にやりたいのは食と農だったので、原稿を書いて出版社に持ち込みましたが、全て断られました。先輩の紹介である出版社を訪ねたらやはりノーでした。徒労で原稿をバッグから取り出したら、「なに〜、もう書き上がっているの?わかった。出そう」プロスパー社の田本社長の一言で世に陽の目を見ました。

それが50歳の頃でした。会社をクビになってすでに10年が過ぎていました。世の中は非情か、温かいか?今もわかりません。一つ言えることはひたむきにやっていると誰かが認めてくれると言うことです。
posted by tk at 08:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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