2025年02月18日

たかが米、されど米

過去を振り返ってもしょうがないという考え方もあるが人間は劇的には生きていません。今の生活や生き方の大半は過去の流れの上に成り立っています。今の人生は過去を糧や資として生きている。

いやそんな立派なものでもありません。過去を引きずって生きています。なぜ、生きていられるか?それは辛いことは忘れることができるからです。でもいい思い出は覚えています。動物には記憶はないんですかね?人間は素敵ないい思い出があるから生きていられます。人生に未練が出ます。

米が足りない等ニュースになっています。日頃、コメばかり食べている人は貧乏人扱いにする風潮もちょっと瞬間的にコメ不足になっただけで大騒ぎです。

どうせ日頃、米はあまり食べないのだからどうでもいいじゃない。いや〜、やっぱり日本人は米を食べないとにわかご飯食派が登場。「ご飯に味噌汁」の味噌汁の作り方も知らないくせに。

昨日、ランチした人が言っていました。彼女はお寺に生まれました。お米は檀家さんがくれます。食べ切れないほど檀家さんたちがくれます。だから新米の時期になっても前年にいただいた米をなくなるまで食べ続けます。

我々兄弟は「もう勘弁して〜」とパンを食べます。両親はありがたく、なくなるまで食べ続けていました。お釈迦様に感謝しながら。

私は農家の出身です。昭和30年代までは麦ご飯が当たり前でした。現代の人に「麦ご飯は体にいいのよ」と言われてもいいとも悪いとも思わない。米のみご飯が出て来ても、麦ご飯が出て来てもどっちでもよいです。というかどうでもよいです。両方ともおいしく食べられます。

しかし、新入社員で仙台勤務になって初めてササニシキを食べた時に米ってこんなに美味しいものかと思いました。実家で食べていた米は農協へ供出後の欠けた米粒ばかりだったことを知りました。

かといってそれが目の前に出されても私は何の違和感もなく食べられます。「子供の頃に戻ったな」と祖父母や両親や妹の顔を思い出しながら。

昔、ある人と話していたら彼はサラリーマン家庭出身だったそうで、親父の給料前頃になると家の米がなくなる。食べる米がない。母親のおつかいで給料日までお米屋さんに借りに行くのが子供の自分の役目で恥ずかしかった。あの屈辱は一生忘れない。

でもお米屋さんのおかみさんは子供心を傷つけないように、にこにこしながら渡してくれた。日本人には「たかが米、されど米」です。
posted by tk at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする