2021年09月23日

山に入ると人間は謙虚になる

一昨日は群馬県上野村で森林の話を聞き、昨日は三重県名張市の伊賀地域の森林(林程度)に入りました。農水省の中山間事業をやっており、資源を求めて森林に入ることが多くなりました。

山は食だけでなく、資源の宝庫でした。「でした」というのは今は一部の国有林や林業会社の所有する森林を除くと荒れ放題の状態です。一方で屋久杉は樹齢1000年を超えていると言います。林業は500年先を考えて植林しているとも言われます。

江戸時代、いや明治時代まで山の大半はハゲ山だったと言います。あらゆるエネルギーや生活の材を山に頼っていました。火は木炭からおこします。それが化石燃料に代わり、山への依存度は極端に減って、今では荒れ放題の手のつけられない状態です。

しかし、人間の寿命が長くなったと言ってもせいぜい長生きして100年です。しかもそれもごく一部の人です。生存期間が数百年の木を人間の脳みそで判断することは不可能です。山が森林が人間を定義づけしています。もっと言うと地球が人間の定義づけをしています。人間が地球を支配して意のままに動かすなんてあり得ないことです。

そう思って森林に入ると人間の無力さ、はかなさ、情けなさが思い知らされます。森林(自然)に逆らっては生きられない。所詮、人間も地球の一産物にしか過ぎない。ものさしは人間ではなく、地球(自然)である。

昨日はジュニパーベリー(ねずの木)を求めて林に入りました。元は別荘地であったようで廃屋が数箇所あります。車が別荘まで入れるように舗道整備がなされています。硬いコンクリートのようなもので舗装されています。

コンクリートの道を歩くと足が疲れます。空手で鍛えているつもりの私の脚力も情けない限りです。スイスイ歩けるのは若者と山に慣れている人だけです。しかし、歩いて入るしか他に手立てはありません。

ねずの木やねずの実を得るためには山をスイスイ歩ける脚力が必要だという制約が付きます。それを突破できたものがねずを得ることができます。幸いにも山に入り慣れた人と2名の若者といて私も足手まといになりながら自生のねずの木を得ることができました。

何に使うか?ジンの製造を企画しています。まだ実現までにはいろんなハードルがありますが、これから先はたいていが人間社会で解決できることです。自然に比べると人智で乗り越えられることはたやすいことです。

posted by tk at 07:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする