2020年11月09日

見事に復活した山川みかん畑

昨日も福岡県みやま市にいました。午前中はみかん山にみかんちぎり(観光用語ではみかん狩り)に行きました。みかん山に入ったのは55年ぶり、半世紀以上も期間が空きました。前回入ったのは中学生の頃が最後です。

もちろん、実家のみかん山です。私の郷里糸島では昭和30年代の終わり頃からみかん山の開墾が始まりました。私のうちも2ヶ所の山をみかん山にしました。しかし、5年位で昭和45年を過ぎる頃からみかんの生産は下火になりました。

みんな生産したために生産過剰で価格の暴落、さらにはオレンジの輸入自由化も影響したのではないかと思います。でも、今でも私の少年だった頃の記憶は実がたわわになったみかん畑です。

昭和40年代後半から米がダブつき始め、減反政策が始まります。みかん山が廃墟に変わっていきます。みやま市長は私と同い年ですが、実家はみかん農家だったそうですが、農家のあとを継いでも飯が食えなくなり、大学を出てサラリーマン、教員の道を歩いたそうです。

私についても同じです。田舎の糸島を後にして大学、サラリーマンの道をたどります。でもその間、縮小するマーケットで温州みかんの生産を続けた農家もあります。昨日、行った農家もそうでした。

みやま市山川はかっての山川町で、山川みかんの生産地です。福岡みかんといえば山川みかんです。東京でも年末になるとスーパーが店頭で箱売りしていたあのみかんです。その山川でみかんちぎりをしました。

みかん山までは自動車が通る車道が通じています。みかん畑の下にはシートが敷いてあります。また、半世紀前に比べてみかん木間の間隔が広くなったような気がしました。

みかんの味が格段よくなりました。かってのスーパー箱売りみかんの面影もありません。半世紀、生産を継続したみかん農家のノウハウと技術と汗と魂が見事なみかんに変身させました。

案内してくれたのは後継者でした。10数年のサラリーマン生活を経て経営を継承したそうです。市長ともしみかんの価格が暴落していなければ、米の値段も下がらなければ、お互い農家のあとを継いで今頃はもう老人生活に入り、会うこともなかったでしょうと笑い合いました。
posted by tk at 07:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする